今日は一日晴れ。ザ・秋晴れでした。
午前中は、鶏舎の世話、ピーマン・トウガラシ・カブの間引き菜の収穫、
昨日のタマネギ畝の準備の続き。
ピーマンは、消費者組合との話し合いで、出荷は10月いっぱいマデ、
と決まっているとのことでしたので、小さいのも採りつくしました。
午後は、鶏舎の空いているケージの掃除。
明日、ニワトリのヒナが来る予定なのです。
夕方は練習畑で、サツマイモの泥落とし。
農業とはま~ったく関係のない、ただの疑問なのですが、、、
体罰問題で体罰を批判する主張として、
「言葉で説得せずに体罰に頼るのは教師としてレベルが低い」
というような趣旨の発言を見たり聞いたりするのですが、
それ、なんでなんでしょうか。
恐らくこのような発言の裏には、
「言葉」でのコミュニケーションは
「腕力」でのコミュニケーションよりも高次だ、
という見解があるんでしょうけど、なんでそう思うのかなぁ、と。
「腕力」は人を傷つけることがあるから?
でも、「言葉」も人を傷つけることがありますよね。
それに、人を傷つけない「腕力(体罰)」だってあるでしょう?
たぶん、「言葉は人間だけに与えられた特別な能力」だ
という概念が、意識的にせよ無意識的にせよあるんだろうなぁ、
と思っているのですが、
人間だけに与えられた能力なら、それは高次なものなの?
人間って、ほかのモノ(生物も非生物も)よりそんなにすごいの?
とか思うわけです。
というか、そもそも、先生だってただの人間ですからね。
理想論を振りかざすのは個人の自由だけど、
それを無理やり他者に当てはめて批判するのはどうかなぁ、
とか思ったり思わなかったり。
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