2013/09/29

決断するまでは曖昧で

今日も秋晴れ。

朝食後すぐに、約1ヶ月滞在していたフランス人カップルウーファーが
出発したので、ひさしぶりにウーファーゼロです。


午前中は、鶏舎の世話、インゲン・ナスの収穫、
昨日の稲藁運びの続き、土壌分析2検体。

午後は土壌分析を4検体。

土壌分析がだいぶ時間かかったので、夕方の練習畑の作業はできず。

ていうか、今日はオフだと踏んでいたのに、
ウーファーがいないからか、普通に作業日でした。

ちぇっ、計算が狂ったぜ(笑)


21世紀にもなるというのに、
世の中には、まだ人間が解明できていないことがたくさん。

いや、農業に限った話じゃなくて。もちろん、農業もですけど。

その「謎」を解明するための「言葉」が「科学」だとぼくは認識しています。

「事象」はすべて科学で解明できるはずですが、
もちろん、まだまだその域に達してはいません。

だから、未解明の「事象」については、意見が割れて当然なのです。

・・・が、なんか、メディア(マスメディアもSNSも)に触れていると、
その未解明の「事象」について、意見を表明するだけでなく、
相反する立場を完全に否定・批判・罵倒しているかのような
論調というかコメントをよく目にします。

「『わたしは』、~だと『思う』」という意見を表明するのは、
何ら問題ないと思うのですが、
どうして、それを妄信するのかなぁ。

相反する立場の論理的な説明をも、
感情的に遮断しているのがなんだかな~、と思うのですけど。


まぁ、でも、自分が信じたいことを信じるのが人間ですし、
立場を決めずに曖昧な状況に自分を置いておくのは大変なのかな?

ぼくはいろいろなことに関する立ち位置というか自分の意見を、
曖昧にしておくのが定常状態になってしまっているので、
別に何とも思わないんですけど。

「意見」とか「主張」って、自分の立場を明確にするためや、
他者を批判するために必要なのではなくて、
「決断」するために必要なのだと思うのです。

だから、「決断」するときまでは、
色々な意見を素直に取り入れるのがいいと思うんですよね~

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